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私的物書

音楽、映画や美術。

『道(La Strada)』(1954年)

今回はフェデリコ・フェリーニ監督の出世作ともなった『道』を取り上げたいと思います。以前、イマジカBSで『カサノバ』(1976年)の放送がありまして、なんて変態な監督なんだろうと印象を受けました。以降、フェリーニの作品を見てみたいと思っていたところに、イマジカBSGyaoが協力して『映画学校』という企画があり、この作品が無料で見られるということですぐさま飛びついた、という経緯です。

今作『道』についてもたくさんの文献を基にした論評がありとても勉強になりました。あれほどの蓄えは私にはないので、浅薄な記事にならぬよう努力を尽くします。。

yao.yahoo.co.jp

では、作品についてです。

やはり今作でテーマとなるのは「男女(二元論)」と「無垢さと穢れ(の二元論)」ではないでしょうか。

男女二元論という面では、ザンパノは伝統的な男性を、ジェルソミーナは伝統的な女性を担っているように思いました。キリスト教の保守的な雰囲気もそこここに感じました。「男性の肋骨から女性が生まれた」というのを信仰しているかのような仕草がいくつも見られました。女性は男性に仕える生き物で、男性はイエの外で何をしようが口出しをしてはならないし、皿洗い(家事)は女性の特権的な仕事、というような場面がたくさんありました。

そして、後者の無垢さと穢れを象徴するのもまたジェルソミーナとザンパノ、ではないでしょうか。田舎で家族と貧乏に苦労しつつも幸せに暮らしていた矢先に、穢れ、ザンパノが訪れてきて、ジェルソミーナを穢れの世界へと連行してしまう。ザンパノ、サーカス職を汚いものと認識することは危険でありますが、やはり良くない世界へと連れて行ったザンパノ、と私は感じました。

唐突ですが、この作品がイタリア映画の名作と称される所以についての見解を述べたいと思います。『道』を見ていて、見終わって感じたことが、視点が外部からの視点に近いんじゃないか、ということです。この映画には、イタリア人の俗習に満ちた酒場や信仰の象徴の場である修道院などなどイタリアの「道」が多く登場していて、そこにはイタリアの土着文化や風習、慣習がその共同体メンバーの視点ではなく、アウトサイダーの視点で描写されているところです。それ故、サーカスのスペクタクル性を最大限に高めていて、全てのやり取りにスペクタクル性を感じました。

以下、ポスターです。

 

http://tthk-18.tumblr.com/post/142048204428/la-strada-directed-by-federico-fellini-1958