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私的物書

音楽、映画や美術。

『美術手帖 2015年10月号 特集春画』を読んで

 

美術手帖 2015年 10月号

美術手帖 2015年 10月号

 

あらゆる点で素人ながら、この本のレビューをしていきたいと思います。レビューの展開としては大きく二点、春画について、と「~である/でない」価値観です。

春画について

まず初めに春画についてです。この本では、春画とはなにか、誰がどのように描き、誰がどのように読み(見て)、どのような影響を与えたのか、についての考察がなされています。また、それから派生し、春画が現代にどのような影響を与えているのかを、マンガ(コミック)、芸術における性表現、エロに対する日本社会の変遷が述べられています。詳細については本書にて。

「~である/ない」価値観

ここからはレビューというよりも、本書を読んで自分が思ったこと、考えたことです。

それは「~である/ない」という二元論的価値観です。

人はモノを見たり、聴いたり、感じたり、受信したときに判断を下すと思います。「これは素晴らしい!」「これはキレイ!」「これは良い!」「これは正しい!」などなど。これらはポジティブな印象を受けた場合ですが、逆にネガティブな印象を受ける場面もあると思います。つまり、その人は自分自身の中にある何かを基準として、「~だ/でない」と判断しています。その基準はその人の経験や感受性に左右されるので、皆が皆同じ価値基準を持っていることはありえません。

こうした二元論的価値観に振り回されてきたのが、春画であるように思います。人は春画を見て、「これは芸術/ただの落書きだ!」、「これは猥褻画/一種の性表現だ!」と判断し、これらを判断材料として「だから子どもに見せてはいけない!/見せても大丈夫!」、「展示してはダメだ!/よい!」と振り回されてきたのではないかと思います。本書でも述べらている、黒田清輝鷹野隆大の二つの腰巻事件ではそうした二元論の中間地点として腰巻が着けられました。こうした伝統的二元論を引き摺っている日本社会で春画が無修正で展示されかつ、春画だけを特集した企画展が催されたことは、日本の性表現と社会の関係史の中でも大きな意味を持つ、と私も思います。

こうした二元論は、美術だけに収まらず、音楽やファッションにも当てはめることは容易です。ある楽曲に対して「これはロックだ!/ロックじゃねえ!」、ある服に対して「これはモードだ!/モードじゃねえ!」などなどがいい例ではないかと思います。(ビートルズストーンズ、コムデギャルソンやヨウジヤマモトのような「~じゃない」と評されたモノを評価するという堂々巡りのような循環もありますが。)

こうした二元論に対して私はこう思います。

こうした二元論はすぐさま捨てるべきで、何事も受信できるような社会になればいいなと思います。たしかに将来への影響を配慮して、良し悪しを議論することも重要だと思いますが、現に、ユーモアの溢れる素晴らしい春画はこうした二元論によって目を背けられ、大英博物館に先手を取られています。フィルターをかけすぎるあまり、とりあえず見て、聴いて、感じてみるといった積極的な姿勢がないと思います。こうした二元論を捨てることが、表現文化全般の成長、発展に寄与するのではないかと思います。