読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私的物書

音楽、映画や美術。

『シン・ゴジラ』(2016年)―モヤモヤなゴジラ―

公開されて約半月、あまりにも絶賛する声を多く目にしたので、いかがなものかと思い鑑賞してきました。以下は、その感想です。

 

端的に言ってしまえば、この映画は「とてもよくできている」、「ただおもしろい」映画だと思いました。その理由を説明していきたいと思います。

 

まず初めに、この映画の大枠を説明したいと思います。ざっとまとめると非常事態に直面した日本政府、およびその組織内で繰り広げられるポリティカル・フィクションを傍観したものとなってます。言うまでもなく、ゴジラがその非常事態の象徴として扱われています。また、ストーリーの話をする際に重要であるのが、この映画の中の世界ではゴジラは見たこともなければ聞いたこともない未確認生物で、「あのゴジラ」ではないということです。

 

では「よくできている」と感じた点の理由は何なのか。それはリアルさです。非常事態に対処する日本政府の対処法、姿勢を描くため、緻密な取材が行われていたそうです。この点については、元東京都知事である猪瀬氏も納得してました。ですから、この取材に裏付けられた舞台で繰り広げられるポリティカルフィクションに空想はなく、現実味をおびていて、それこそ完璧であると思います。また、私たちが抱いている、皮肉も含めた3.11以降の日本政府像が映画の中にはあります。つまり、この映画の中の世界の日本政府も、その日本政府の対処の仕方も架空のものではなく、実際に起こりうるという点でリアルさがあふれています。こうした極めて現実的な舞台で繰り広げられるポリティカルフィクションというのは、ものすごく日本人好みであるようにも思いました。この点で、この『シン・ゴジラ』は『半沢直樹』、『白い巨塔』等々の人気を博したテレビドラマと共通しているのではないかとも思います。更にこの三者の共通項として、とても限定的なコミュニティー内での演劇であることも挙げられます。『シン・ゴジラ』には市民がいない、という指摘もこれでわかるかと思います。

 

だがしかし、この「リアルさ」が仇となってしまっているのではないかと思いました。つまり、ただのパニック・シミュレーション映画に陥ってしまっているのではないかということです。ゴジラはこの映画ではパニック発生装置(仕掛け)にしかすぎないし、ゴジラである必要があるのかどうかがとても疑問です。むしろ、この映画がこれだけ話題となっているのも、日本出身のゴジラというキャラクターが持つスペクタクル性によるものではないかとも感じます。そして、このゴジラという怪物に対して本気で立ち向かったらどうなるかシミュレーションすると、日本政府内ではこういう手続きが進められて、自衛隊がああでこうで、という空想科学読本的趣向があるように思えます。(ここに価値を見出す人もいると思いますが、私はあまり。)この点で「ただおもしろい」、エンタメ性の強い見世物映画、スペクタクル映画と化してしまったのではないかと思います。

 

そしてこの「リアルさ」の弊害はもう一つあると思いました。それはどうとでも捉えることができ、恣意が感じられない、ということです。自衛隊にしても、「どんな危機をも乗り越えて国家を救う自衛隊!!!」とも捉えられるし、「平和を謳ってるのにこんな武力持ってるんだ…」とも捉えられるかと思います。また、ゴジラ原発の象徴とするならば、「こんなにまで滅茶苦茶にしてしまう危険なものを日本は抱えているのか…」とも、「人間の手によればどうとでもできるんだから安全!」とも捉えられます。より政治的なことで言えば、数秒のカットでしたがデモが行われた様子が写されていましたが、それも「やっぱり影響力があったんだ!」とも、「ゴジラという偉大な映画でさえも数秒しか映されない小さな運動」とも捉えることができたと思います。また、短時間に多量に流れるテレビ中継やラジオ放送といった描写も一つ一つを取り上げず、ただ単に情報量の多さの象徴にとどまっています。このように、妙に淡白で、フラットで、他人事のように取り扱っている為に、恣意がなく、今の日本に対しての投げかけを感じられませんでした。つまり、どうとでも捉えられるように「よく」仕組まれているなと思ったと同時に、「ゴジラ」を扱った映画として、「映画」として腑に落ちませんでした。

 

では、長々と述べてきましたが、結論はこうです。「『シン・ゴジラ』はゴジラに対して愛を持ち続けてきた少年が、大人になってその時の情勢を踏まえて真面目にゴジラと戦ってみた映画」と言えるのではないでしょうか。